麒麟がくる 「桶狭間の戦い」は謎だらけ

北九州市若松区のエコタウン内にあるヒューマンブリッジ株式会社NKRC事業所です。

永禄3年(1570)5月19日、織田信長と今川義元の間に戦いが起こります。『桶狭間の戦い』です。

信長を語る際、どうしても避けて通れないのがこの戦いですが、実ははっきりした場所はわかっていません。

現在、愛知県豊明市に『桶狭間古戦場伝説地』と名古屋市緑区に『桶狭間田楽坪古戦場公園』と2か所の史跡があります。

この戦いの内容は、尾張に侵攻してきた今川軍約25000名に対し、迎え撃つ織田軍約3000名が、桶狭間という所で今川軍が昼食を摂っているスキをついて背後の山に廻り込み、突然の豪雨の中奇襲をかけて、少数ながら混乱に乗じて今川義元を打ち取ったというのが通説になっています。

ところが、家臣の書いた『信長公記』には、迂回などせず、正面から今川本陣を攻撃したと書かれています。

ではどうやって信長は勝利を収めたのでしょうか?

これが勝因だという明確な資料はありませんから、ここから先は歴史好きの勝手な空想だと思ってお読みください。

信長が出陣したのは、最前線の二つの味方の城が今川軍によって攻撃されたことを知ってからで、これによって今川の大群が伸びきって分散していると考え、一気に今川本陣を攻撃するべく出陣。

進軍中に豪雨が降り、これに紛れて本陣に接近。

近寄ってみると思った通り今川軍は各隊が分散していて、織田軍の総数と本陣を守っている兵の数が運よく同じくらいで、そこを正面から一気呵成に攻め込んで、勝利を得た。

と、言うことじゃないかと思っています。

まさに信長にとって今川本陣攻撃についてはイチかバチかだったはずで、野球に例えるなら、バッターボックスに立った選手に向かってベンチから『ホームランを打て!』とサインを出すような叱咤激励があったに違いありません。

『行け、とにかく突っ込め!』

また、当時の信長軍は鉄砲を数多く保有しており、その火力も勝因なのかもしれません。

だとすると、豪雨の中攻撃を仕掛けたという通説も違い、『少数の部隊』が『迂回』し『奇襲』をかけ『大部隊を打ち負かした』というのは『創作』なのかもしれません。

さあ、お仕事始めましょうか。


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