日日是好日 『神戸事件』
北九州市若松区のエコタウン内にあるヒューマンブリッジ株式会社NKRC事業所です。
神戸市営地下鉄『居留地・大丸前』を出てすぐ、『三宮神社』がある。
居留地というのは、幕末、神戸開港と同時に整備された『外国人居留地』のことで、この付近を歩いてみると地番がバラバラの配置になっており、整備が済み次第番号が振られたことを意味する。
ちなみに神戸の山側、北野の辺りを『雑居地』といい、日本人と外国人が入り混じって生活していた。
したがって、当時の様子を留める『洋館』がいくつか残っており、現在は観光名所になっている。
そんな国際色豊かな街に事件が起きる。
戊辰戦争会戦間もない慶應4年(1868)1月3日、倒幕側が徳川方の尼崎藩牽制のため備前藩(岡山)に摂津西宮(西宮市)の警備を命じる。
慶應3年12月7日の神戸開港に伴い、徳川幕府は大名行列における外国人とのトラブルを避けるため、大名行列は専用迂回路の『徳川道』を設け利用していたが、備前藩の警備隊は徳川道を通らず一般道である『西国街道』を進んだ。
慶應4年1月11日の午後、備前警備隊が三宮神社近辺に差し掛かった頃、2人のフランス兵が警備隊の行列を横切ったため、備前警備隊との間でトラブルが起きる。
その際、隊長であった滝善太郎正信が槍を持って静止にかかったが、水兵に負傷者が出て応援に駆け付けたフランス水兵達と銃撃戦に発展してしまう。
その際、たまたま隣接する居留地を実況見分していた欧米諸国公使の方にも銃弾が流れたため、アメリカ海兵隊、イギリス警備隊、フランス水兵との銃撃戦に発展し、双方に死者は出なかったものの、諸外国の軍隊は警備上の理由もあって、神戸を一時占拠した。
これを『神戸事件』と言う。
この事件は、明治新政府にとって初の外交事件であり、これ以降、明治新政府が対外政策にあたる正当な政府であることを諸外国に示したのと同時に、外国を打ち払う『攘夷』から『開国和親』へと大きく方向変換した事件でもあった。
その後の交渉は進まなかったが、在留外国人の安全の保障と日本側責任者厳重処罰ということで決着し、滝善太郎正信は2月9日、永福寺において諸外国代表の前で切腹した。
生田川を挟んでの銃撃戦の際、死者が一人も出なかったのは滝善三郎正信が外国兵を狙わず、外国兵の頭越しに当時の税関の屋上に翻っていた諸外国の国旗を狙って撃つように指揮したからだと言われている。
ひとつ間違えば『薩英戦争』の二の舞になっていたこの事件、一人の武士の尊い犠牲によって何とか回避することができた。
事件現場も近代的建物が建ち並び、今は石碑を残すのみとなっている。
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