日日是好日 鎌倉殿の13人 『頼朝と義経』
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『判官(ほうがん)びいき』という言葉を聞いたことがあると思う。
『はんがん』とも読む。
簡単に言うと、弱い立場の人間に肩入れし、同情するとか味方したくなるという意味で、日本人の気質を表す言葉もである。
判官とは役職のことで、義経は『源九郎判官義経』(みなもとの くろう ほうがん よしつね)と名乗っていて、それが語源となった。
幼名を『牛若丸』という。
家来に『武蔵坊弁慶(むさしぼう べんけい)』という人がいて、京都の五条大橋の上で出会ったとされているが、実在の有無については定かではない。
頼朝と義経は異母兄弟で、頼朝が人質として鎌倉にいた頃、義経は藤原氏を頼って奥州平泉(現在の岩手県)にいたが、頼朝が平家討伐にために挙兵すると兄のもとへ駆けつけ、一の谷、屋島、壇之浦といった戦いで平家を打ち破る大活躍をした。
ところが、義経は頼朝を激怒させる。
その理由は3つ。
ひとつは、頼朝の家来達を自分の家来だと思っていたこと。
頼朝にしてみれば、義経も家来の一人だと思っていたので『あんまり、いい気になるなよ!』ということ。
また、奇襲ばかりの戦術で戦い、勝利したこと。
『やあやあ我こそは、○○なりーっ。遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ』ってな感じで、名乗りを上げて戦うのが当時の武士としての常識だったので『もっと、正々堂々とやらんかっ!』ってこと。
恐らくこれが逆鱗に触れた最大の原因だと思われるのが、後白河法皇から頼朝の許可なく勝手に官位を貰ったこと、つまり『お前は誰の家来のつもりなんだ、調子に乗るな!』ってこと。
義経は謝ったが頼朝の怒りは収まらず、鎌倉にも入れてもらえず、以前お世話になっていた藤原秀衡(ふじわら ひでひら)を頼って匿われていたが、秀衡が死ぬと息子の藤原泰衡(ふじわら やすひら)は頼朝を恐れ、泰衡は義経を襲撃し、義経は自害してしまう。
実は義経は死んでおらず、密かに大陸へと渡り、『チンギス・ハーン』になったという説があって、ある意味、これも『判官びいき』のひとつだ。
孫の『フビライ・ハーン』が『元』を建国し、日本侵略を企て、『文永の役(1274)』と『弘安の役(1281)』で鎌倉幕府第八代執権『北条時宗』をずいぶんと慌てさせた。
いわゆる『元寇』であるが、侵略の理由が鎌倉幕府への復讐などとは現行の教科書にはどこにも記載されていないので、信用しないでね。
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