日日是好日 鎌倉殿の13人 義経奮戦記 『一の谷の戦い』
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大河ドラマで、源義経が登場したのでちょっと書いてみる。
彼は、源義朝(みなもとの よしとも)の9番目の子供だったので、九郎(くろう)という名で、幼名を『牛若丸』という。
幼名の方が有名でご存知だと思うが、親しい人達から『キューちゃん』と呼ばれていたかどうかは定かではない。
彼の名前は『源九郎義経(みなもとの くろう よしつね)』という。
父義朝が平家との戦で戦死した後、鞍馬寺に預けられ、その後は奥州の藤原秀衡(ふじわらひでひら)のお世話になった。
兄頼朝の挙兵を知るや奥州から家来の『弁慶』らとともに駆けつける。
頼朝と義経は異母兄弟であり年の差は12歳で、初対面は頼朝33歳、義経21歳で、人格が形成されてからの出会いが、ある意味悲劇の始まりと言える。
兄弟対面の4か月後、治承5年(1181)閏(うるう)2月、宿敵『平清盛(たいらの きよもり)』が64歳でこの世を去る。
この辺から平家の勢力が次第に弱まり、清盛が生前ここに天皇を移して『福原京』にと考えていた現在の神戸市福原に拠点を移す。
ちなみに、天皇がいる場所を『京(きょう)』といい、古くは平城京、長岡京、平安京などで、現在は東京、すなわち日本の首都である。
1184年2月、源範頼(みなもとの のりより)率いる5万6000人、義経率いる10000名で平家に戦いを挑む。『一の谷の戦い』の始まりである。
平家の守りも堅く、なかなか攻撃の糸口を掴めなかった義経は奇襲戦法を思いつく。
70名ほどの精鋭を引き連れ、平家の本陣裏の急斜面から一気に攻め込むという。
地元の猟師に、『ここは馬が下りることが出来るか?』と聞くと、『鹿が下りていくのは見たことがありますよ』とのこと、義経は鹿が下りられるのなら同じ4本足の馬でも下りられるという一世一代の屁理屈をこね、馬に乗り一気に駆け下りた。
この時、怪力で有名だった畠山重忠(はたけやま しげただ)という武将はそれでは馬が気の毒だと言って、馬を担いで下りたという。
これが世にいう『鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし』で、現在の、兵庫県神戸市須磨区一ノ谷町4丁目あたりである。
この予想外の攻撃により、平家は大混乱を起こし敗退してしまう。
この時、海へと逃げる平家の中に『平敦盛(たいらの あつもり)』という若武者がいて、源氏方の『熊谷直実(くまがい なおざね)』と一騎打ちを演じる。
この時の様子は、中学校2年の古文の時間に『敦盛の最期』として勉強したはずなので、『ああ、あのことか』と思い出す人もいると思う。
この戦いで源氏は圧勝、平家は四国の高松にある『屋島』へと後退する。
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