日日是好日 鎌倉殿の13人 義経奮戦記 『壇ノ浦の戦い
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治承(じしょう)4年(1180)から元暦(がんりゃく)2年/寿永(じゅえい)4年(1185)にかけての源氏と平家の争い、いわゆる『源平合戦』は3月24日(現在の暦では4月25日)に行われた『壇ノ浦の戦い』においてその幕を下ろす。
元号が元暦、寿永と重なっているのは、安徳天皇と後鳥羽天皇の在位が重なっているからで、何故重なっているかというと、平家が都落ちする際、安徳天皇と『三種の神器』を持ち去っており、平家側は改元後も寿永を使っていたからである。
『三種の神器』については1月に拙い僕のブログに書いているのでそちらを読んでいただきたい。
したがって、源義経が平家討伐のため都を出立する際、後白河法皇から強く念を押されたのが、三種の神器の奪回であった。
『一の谷』、『屋島』と勝利したが今一歩及ばず、完全撃滅を目論んだ義経は瀬戸内の水軍(海賊)を味方につけ、平家最後の拠点となった下関の『彦島』に向け進軍した。
源氏840艘、迎え撃つ平家は約500艘での一大海戦が赤間関(現在の関門海峡)で行われる。
当初、源氏は彦島に向け海峡を東から西へ船を漕いでいたのだが、潮の流れは西から東、つまり逆方向へ押し流される形であり、逆に平家は潮の慣れに乗り進撃しながら矢を射ることが出来るという好条件のもと戦いをしていた。
ところが時間の経過とともに潮の流れが変わる。
今度は東から西、つまり源氏の船団が潮に乗って平家の船団を押し返す形となり、平家側は大混乱となり一気に勝敗の決着がついた。
この潮の流れの変化による勝因は根拠に乏しく、勝因は義経の奇策であると言われる。
当時の武士の戦での作法は、船の漕ぎ手を殺害して戦闘力を奪うことはしないのが常識だったのだが、義経は船の漕ぎ手を矢で次々と射殺すよう命令、平家側の混乱に拍車をかけた。
そんな中、せめて一矢報いたいと思っていた平教経(たいらの のりつね)は船上で義経と出くわし、義経は『ここで討ち取られては』と感じ、船から船へと飛び移りその場を去った。
これを『義経の八艘飛び(よしつねの はっそうとび)』という。
もはやこれまでと悟った教経は斬り合っていた安芸太郎(あき たろう)と安芸次郎(あき じろう)兄弟の源氏の武士に飛び掛かり、両脇に抱え入水したと言われています。
また、戦況を聞いた『建礼門院(けんれいもんいん=平徳子=高倉天皇の皇后=安徳天皇の母)』と『二位尼(にいのあま=平時子=平清盛の妻)も入水を決意、二位尼は6歳の安徳天皇を抱いて入水した。
『さあ、参りましょう』と二位の尼が手を取ると安徳天皇は『どこへ行くの?』と訪ね、二位尼は『海の下にも都がございますよ』と答えたという。
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