日日是好日 鎌倉殿の13人 『後白河法皇の誤算』
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天皇は崩御、つまり亡くなることによりその皇位が継承されるが、後白河天皇は保元3年(1158)二条天皇にその位を譲り、『後白河上皇』となり長きにわたり『院政(いんせい)』を敷いた。
院政とは即位した天皇ではなく譲位した上皇が政治を行うことで、上皇が○○院と呼ばれることからその名がついた。
摂政とか関白や将軍も天皇に任命されてその職に就くわけで、事実上日本の最高権力者は天皇で、その天皇を陰で操るのだから『黒幕』なわけである。
現在も総理大臣は天皇が任命するから、形式的なことは変わっていない。
そして、上皇が出家してお坊さんになると『法皇(ほうおう)』になる。
この黒幕が源義経に『左衛門少尉(さえもんのしょうじょう)』という『官職』を授けます。
さらに、この職務に就くということは『検非違使(けびいし)』になるということで、現在の『検察官』であり、要は都を守る仕事です。
別名を『判官(ほうがん)』というので、『源九郎判官義経(みなもと くろう ほうがん よしつね)』となり、『判官びいき』の由来がこれです。
義経にしてみればたいへん喜ばしい事なのだが、後白河法皇には策略があった。
この法皇、平清盛や木曽義仲(きそ よしなか=源義仲)ら台頭してきた武家勢力により幽閉、つまり閉じ込められた経験があり、いずれ台頭してくる源頼朝に対抗するため、義経を味方につけておく必要があった。
それで官位を授けたワケだが、このことは平家との一連の戦いにおける勝手な振る舞いのチクリなどとも重なって、頼朝と義経の関係が悪化する原因となり、鎌倉では法皇が義経に頼朝追討を命じるという噂が流れた。
そんなとき、本当に法皇は義経に対し頼朝を討つよう『院宣(いんぜん)』とういう命令を下し、朝廷は頼朝に対し宣戦布告します。
ブチ切れた頼朝は武力で朝廷を脅しつけ宣戦布告を撤回させます。
『いや、あれは義経に脅されちゃったものだから』と言い訳する法皇に対し、『だったら、朝廷は義経に対し宣戦布告し、オレをその大将にしろ!』と頼朝は脅しをかけます。
そしてさらに、
『義経追討のためにオレの御家人を各地に送り込むぞ!』
『その御家人たちに戦争に使う米の現地支配をやらせるぞ!』
と、追加で注文を付けました。
はい、このふたつ重要ですよ。なぜならこれが『守護・地頭』の始まりだからです。
鎌倉時代を勉強する上で重要なポイントである『守護・地頭』の誕生のキッカケはここにあるのです。
文治5年(1189)奥州合戦において義経が死ぬと長かった戦も終わり、前のように荘園や領地からの収穫でのんびり暮らすことが出来ると朝廷は思いましたが、守護や地頭はそのまま居座り、ますます武家の力が強まりました。
文治6年(1190)、法皇は頼朝と対面、権大納言(ごんだいなごん)・右近衛大将(うこのえたいしょう)に任命する。
法皇は頼朝を征夷大将軍にすることだけは頑なに拒んでいましたが、建久3年(1192)に亡くなります。死因は糖尿病だと言われています。
その4か月後、頼朝は征夷大将軍になり、名実ともに鎌倉幕府が成立しました。
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