日日是好日 頼朝の死
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建久10年(1199)源頼朝死去、享年51。
何の前触れもなく、また遺言なども一切ないので、本人も自覚がなかった『死』であったようだ。
鎌倉幕府の公式な歴史書である『吾妻鏡(あづまかがみ)』には頼朝の死の前後3年間の記録がすっぽりと抜け落ちている。
初代将軍である頼朝の死に関して詳細な記述は全くない。
いったい何故なのか?
吾妻鏡の編纂を命じたのは、頼朝の死後に執権として実質的な幕府のトップに取って代わった『北条氏』である。
だから頼朝の死は、北条氏にとって何か都合の悪いことでもあったんじゃないのと、疑ってみたくもなる。
そこで、京都の公家などの日記を見てみると、『落馬』の記述がある。
さらに、落馬の原因は雲の切れ間から突然怨霊が現れ、驚いた頼朝が落馬したらしい。
たしかに頼朝は繊細なところがあって、鶴岡八幡宮や永福寺を建立した理由は、将軍になるまでに殺した大勢の人たちの怨念を鎮めるためだった。
でも、怨霊説は直接の死因にはならない。
また、はっきりした記録がないと出てくるのは『暗殺説』で、曽我兄弟の仇討は一部の御家人達の頼朝に対する不満の表れで、事実仇を討った後、頼朝の寝室に踏み込んでいる。
したがって、これは頼朝暗殺未遂事件だという説もある。
だが、曽我事件の後、粛清による粛清が続いたので、暗殺ができるような勢力は残っておらず暗殺説は根拠に乏しい。
また、京都の公家たちの日記にも暗殺を匂わせるような記述もなく、今後はよほど有力な根拠が出てこない限り、八百年後の我々は分るはずもない。
暗殺の方が歴史好きには一層興味を増すが、別の日記には『水をガブガブ飲む病』との記述があり、その病とは今でいう『糖尿病』である。
したがって、糖尿病で体調の思わしくない中、橋の落成式典に出かけ、その際の落馬がもとで亡くなったというのが有力な説である。
まあ何れにせよ、頼朝の死後、二代で源氏の血は絶えて北条氏が権力の中心に座るのだから、もし本人が知ることができたなら、もっと食生活に留意したに違いない。
齢を重ねると、食生活に注意が必要というのは、八百年前から変わっていないということか。
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