日日是好日 『生麦事件』
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文久2年(1862)8月21日、この日は日曜日で、女性を含む4人の英国人は横浜関内の外国人居留地から神奈川まで船で出て、そこから馬に乗って川崎大師を目指した。
尖った夏の日差しは和らぎ(現在の暦では9月14日)、行き合いの空からの日差しは秋の気配を忍ばせ、馬上から見渡す郊外の眺めは見るものすべてが珍しかった。
このちょっとした旅行は彼らにとって日本滞在の思い出を飾るには十分なはずだった。
午後二時ごろ、一行は現在の横浜市鶴見区生麦1丁目あたりで江戸から下ってきた薩摩の島津久光の行列と出くわす。
400名ほどの行列が道幅約6メートル弱の道幅いっぱいになり次第に迫ってくる。
すぐに馬から降りて道を譲れば何の問題もなかったのだが、イギリス人たちはどうしてよいか解らず、馬も慌てその大きな体のやり場に困っていたが、その行列は止まることなく、いつしか4人は行列に飲み込まれていく。
薩摩の行列が、この日街道において外国人とすれ違ったのはこの一行だけではなく、生麦村に至るまで数組あったが、彼等は馬から降り道を譲ったので、薩摩側も道を譲るはずだという意識があったのも否めない。
薩摩藩士たちは、身振り手振りで馬から降り道を譲るよう求めたが、イギリス人は理解できず、行列は止まってはくれない。そうこうしているうちに久光の乗る籠の近くにまでイギリス人たちは接近してしまった。
その時である、奈良原喜左衛門という藩士が奇声とともにイギリス人リチャードソンに斬りかかった。
他のイギリス人3名もその様子を見て、とにかく逃げ出すことにしたが、リチャードソンは途中で落馬し、海江田信義という藩士に、『今、楽にしてやる』と言われとどめを刺された。
この海江田という人、この頃は有村俊斎(ありむら しゅんさい)と名乗っていて、明治維新後は奈良県知事や枢密顧問官を歴任した人物である。
ほかのイギリス人たちは襲い掛かる刃をかわして何とかその場から逃げ出すことが出来たが、女性を除く2名も重症を負った。
それまで『異人斬り』は発生していたが、これらは個人による犯行であり、生麦事件は歴(れっき)とした藩が行った行為であり、イギリスの責任追及は徳川幕府にも及んだ。
イギリスの抗議により幕府は賠償金を支払ったが、薩摩は頑としてこれに応じず翌年7月の薩英戦争に至るのである。
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