日日是好日 『決戦 川中島』
北九州市若松区のエコタウン内にあるヒューマンブリッジ株式会社NKRC事業所です。
川中島は千曲川と犀川とに挟まれた平坦な土地で、現在は長野市のベッドタウンとなっている。
秋も深まり気温が低下すると、この辺りは深い川霧に包まれる。
この霧を利用して2人の武将がそれぞれの家名をかけ、叡知と武勇を尽くし、北信濃の領有を目指して『決戦』を挑む覚悟を決めた。
甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信である。
永禄4年(1561)9月10日(現在の暦では10月28日)早朝、武田信玄率いる約八千の将兵が『風林火山』の旗の下、霧が晴れるのを川中島・八幡原で静かに待っていた。
昨夜のうちに出陣した武田別働隊約一万二千の将兵が、妻女山に籠る上杉謙信率いる約一万三千を背後から奇襲して山から追い落とし、敗走する上杉軍は兵站基地である善光寺へ向かうため川中島・八幡原を通過する。そこに信玄率いる本隊が先回りして待ち伏せし、背後から追う別働隊とで挟み撃ちにする作戦に出た。
これを『啄木鳥(きつつき)の戦法』という。
啄木鳥は捕食の際、穴の中に籠る虫を直接穴から捕るのではなく、裏側に廻り込んで木を突き、驚いて穴から出て来た虫を食べるという習慣からこの作戦名がついた。
だが、妻女山の方からは物音一つ聞こえてこず、夜明けとともに次第に霧も晴れ始めた。
その時、信玄以下八千の将兵が眼前に見たものは、すっかり布陣を終え、いるはずのない上杉軍一万三千の姿だったのである。
両軍が霧を利用し、姿を見せず夜のうちに川中島へと移動したわけだが、山上から武田軍の動きを察知した上杉軍が一足早く行動を開始し、武田軍の裏をかいたのである。
武田の軍師である山本勘助はすぐさま『鶴翼(かくよく)の陣』の体型をとるように指示を出したが、全軍が円を描くように移動し、各部隊が入れ代わり立ち代わり突撃を繰り返す上杉軍の『車懸かり(くるまがかり)の陣』に対して、武田本隊がいつまで持ち堪えられるか。
妻女山に向かった武田別働隊が到着した時には既に上杉軍は蛻(もぬけ)の殻であり、作戦が見破られたことを悟ると、全軍急いで山を駆け下り、川中島へと向かった。
上杉軍の突撃に対し、諸隊をぶつけるようにして応戦していた武田本隊は押されて形勢は次第に不利になっていく。
そんな時、駆けつけた武田別働隊一万二千が上杉軍の背後から迫ると形勢は逆転し、上杉軍の死傷者が増え始め、突撃の勢いそのまま一気に武田本隊を裂くように駆け抜け、戦場から退却した。
その際、武田の陣中に飛び込んだ上杉謙信と武田信玄との一騎打ちが演じられたと伝わるが、恐らくフィクションであろう。
この戦いにおける死傷者の数は、武田軍四千、上杉軍三千と言われる。
武田側は信玄の弟である武田信繁、軍師山本勘助など主だった武将に死者が多く、上杉側も形勢が変わってからの兵卒の死傷が急増したので、信玄と謙信のいずれもが自軍の勝利であると確信していた。
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