日日是好日 『伊藤博文暗殺事件』
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明治42年(1909)10月26日、現在の中国はハルビン駅1番ホームにおいて日露関係調整のため、ロシア蔵相と日本側代表との会談が列車内で行われた。
会談終了後、列車からホームに出た日本側代表の伊藤博文は整列するロシア兵の前を会釈しながら歩きはじめた。
その時である、整列するロシア兵の背後からかき分けるようにして飛び出した韓国人独立運動家によって銃撃された。
伊藤は3発の銃弾を受け、すぐに駅舎内に運び込まれたがかなりの重傷で、ブランデーを口にし、犯人が韓国人であることを聞くと、『馬鹿な奴だ』と言い残し息を引き取った。享年68。
彼が暗殺されるまでの経緯を簡単に書いてみる。
明治38年(1905)8月、日露戦争勝利によりロシアの脅威がなくなると日本は韓国との間に協約を結び、顧問を派遣して韓国の財政や外交に介入する。
また、日本は韓国における指導権を、アメリカはフィリピンにおける指導権を日米間で認め合った。
そして、日本は統監府を設置し、初代統監に伊藤博文を任命した。
その後の日本の進出に対し、韓国は明治40年(1907)6月、ハーグ万国平和会談に韓国皇帝からの密使を送り抗議したが、列強からは相手にされずにいた。
伊藤はどちらかというと韓国併合に賛成ではなかったが、初代統監ということもあって暗殺のターゲットに選ばれてしまった。
だから、『馬鹿な奴だ』と言ったわけだ。
ロシアは日本の韓国進出に反対の立場であったが、当時ハルビンは租借地であり、自国領土内での事件に関与の疑いを恐れ、一転して日本に賛成した。
それら一連の動きがあり、明治43年(1910)8月に大日本帝国は大韓帝国を併合し統治下においた。
犯人はその場で取り押さえられ、後に処刑された。
事件当時の証言では、伊藤の着衣の弾痕を調べると、ホームで撃たれたにしては弾道に疑問があり、駅舎の2階の窓から狙撃され、犯人は別にいるとの説もあるようだが真相は闇の中だ。
伊藤博文は松下村塾の門下生で、師はあの吉田松陰である。
松陰の対外思想は、カムチャッカやオホーツクを奪い、満州、フィリピン、台湾など広範囲の領有を主張するというものであった。
具体的な手段は記されなかったが、松下村塾の出身者の何人かが後の政府の中心で活躍したため、日本の対外政策に大きな影響を与えることになった。
現在も吉田松陰を祀った松陰神社の敷地内に『松下村塾』が当時の姿のまま残されている。
この庭先にあった小さな小屋が、昭和二十年の敗戦に至るまでの出発点であると言っても過言ではない。
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