つれづれなるままに~日々是好日 歴史好きの独り言⑰

北九州市若松区のエコタウン内にあるヒューマンブリッジ株式会社NKRC事業所です。

歴史好きの独り言⑰ です★

ここは長崎、喧嘩坂

元禄13年(1701)12月19日、その日は朝から晴れていて、昨日からの積雪も次第に溶け、石畳の階段となっているこの坂道も幾分ぬかるんでいた。

そんな昼下がりに事件が起きる。

深堀藩の武士二人が坂を上り、そのうち一人が足を滑らせ大きく一歩踏み出して泥を跳ねた。そこをたまたま下ってきた町年寄(役人)二人のうち一人にその泥がかかってしまう。

その時は、深堀藩側が丁寧に謝罪したので事なきを得て互いに別れたが、町年寄二人が帰ってその話を仲間にしたところ、

『なんだお前たち、それで帰ってきたのか』『悪いのは向こうじゃないか』みたいな話になって、その夜、徒党を組んで深堀藩邸に押しかけ、当事者の武士二人を袋叩きにしてその刀を奪って引き上げた。

今度はこれを聞いた深堀藩が武士の沽券に係わると黙っておらず、翌早朝に町年寄である高木家へ大挙押しかけ、大暴れした。

高木家は現在の西浜町電停前浜町アーケード入り口付近にあって、ひと騒ぎの後、騒ぎの発端となった武士の一人は高木家邸内で切腹し、もう一人の武士は高木邸前を流れる中島川に架かる現在の鉄橋(てつばし)の上で切腹しました。

ただ、この橋上で切腹した人物を検証したところ、切腹の跡はなかったので、仲間の藩士に斬られたのではないかとも言われています。

長崎奉行所はこの一件について、深堀側は10名切腹と9名の五島へと島流し、高木家側には9名全員斬首を言い渡しました。

そもそも、長崎港警備役の深堀藩と町の統治と貿易を一手に扱っていた町年寄の両者は普段から仲が悪かったと言います。

この騒ぎを『深堀事件』とか『長崎喧嘩騒動』と言い、舞台となった天満坂は賑町にあって『喧嘩坂』とも呼ばれ、現在その両側には長崎地方検察庁と長崎地方法務局があります。

あれ、ちょっと待ってよ、こんなお話どこかで聞いたような気がしませんか?

この事件の翌年、元禄14年12月14日に赤穂浪士による吉良邸討ち入り事件が起きていて、大石内蔵助は討ち入り方法や奉行所の対処について詳細に調べたと言われています。

討ち入った後に、門を閉ざして加勢を入れさせず裏門も固めて逃亡者を防いだこと、弓の弦を切って使用させなかったことなど類似する点が多いのです。

『忠臣蔵』にも前例があったんですね。ただ、長崎マニアの私としては、長崎での出来事が世間に知られていないのは少し残念です。

こっちは江戸でやっちゃったから有名になったけど、まあ、良しとするか。

さあ、お仕事始めましょうか。


当事業所は安心の長期雇用・高待遇をキーワードに、テレビ、冷蔵庫、洗濯機、エアコンという家電製品のリサイクルを業務にしている会社です。
元気いっぱい中高年の方を中心とした活気ある職場です。共に頑張り若松エコタウンを盛り上げましょう。

前へ

保育園の入学・進級式に行ってきました

次へ

香月中央公園でウォーキングついでに夜桜を見てきました~!