日日是好日 日露戦争② 『旅順攻囲戦』
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旅順(りょじゅん)は市街地と港を囲むように山々が連なっており、さながら天然の要塞であった。
三国干渉後、旅順はロシアが清国より借り受け、港にはロシア太平洋艦隊を配備し、陸上の攻撃から艦隊を守るため周囲の山々に砲台を築き『旅順要塞』と呼ばれていた。
開戦後、日本海軍は大陸への海上輸送の安全確保のため、旅順港の出入り口に連合艦隊を配置してロシア太平洋艦隊を封鎖していたが、ロシア本国から第二太平洋艦隊、いわゆる『バルチック艦隊』を極東へ派遣するという情報を得た。
ロシア太平洋艦隊は日本の連合艦隊の7割ほどの戦力であったが、このまま封鎖が続き、その間にバルチック艦隊が来航し合流されると、3倍ほどの戦力と化し、連合艦隊は対抗できない。
そこで、陸軍に旅順要塞攻撃を依頼し、陸上からの攻撃によりウラジオストクに退避するため脱出を試みる敵艦隊を洋上で撃沈する作戦を立てた。
陸軍にとっても6万近いロシア兵が籠る要塞をそのままにしておくと、主戦場である満州での戦闘の際、遼東半島先端にある要塞から出陣されて攻撃を受ける可能性があったので、要塞攻略のための『第三軍』を編成し、司令官に『乃木希典(のぎ まれすけ)』を任命した。
乃木第三軍は3度の総攻撃を実施したが、要塞からの砲撃や新兵器の『機関銃』の威力は凄まじく損害が増えるばかりで要塞陥落の目途すら立たず、このまま兵士の損失が続くと満州に展開する日本陸軍崩壊の恐れも出てきた。
それまで要塞の外周から旅順港の敵艦に向け砲撃を実施していたが、要塞の山々に遮られて敵艦にどの程度損傷を与えているのか見えず、またバルチック艦隊の来航前の攻略も考慮し、急遽、要塞正面から北西の『203高地』への全力攻撃へと変更した。
203高地は標高が203メートルであることから日本側がそう呼び、山頂からは旅順港が見えて有効な砲撃が可能になる。
当初、ロシア側もこの山をある程度の防備で固めていたが、日本側の動きによりさらに軍備を強化して日本軍を迎え撃った。
つまり、この戦争における日本の運命は203高地攻略の成否にかかっていたと言っても過言ではなかった。
明治37年12月5日、両軍多大の犠牲を出した末、ついに203高地は日本側の手に落ち、ここに観測所を設け、旅順港内の敵艦艇及び市街地の施設、また要塞の砲台群にも有効砲撃を実施して、明治38年1月1日、旅順要塞司令官ステッセル中将は降伏を申し出て旅順要塞はついに陥落した。
ロシア太平洋艦隊の壊滅により日本海軍は旅順港封鎖から解放され、バルチック艦隊を迎え撃つ準備に入った。
日本側の損害は死傷者約6万人に対し、ロシア側の死傷者約4万6千人(海軍含む)であった。
戦後、ステッセルはまだ1万人ほどの戦力があったにも拘らず降伏した責任を問われ、戦後ロシアの軍事裁判において死刑が言い渡されたが、乃木希典の嘆願もあって刑を免れ、禁固10年の後、軍を追放され『商人』となった。
乃木希典は旅順攻囲戦の死傷者数と西南戦争時に軍旗を紛失した責任を取って、明治天皇の大喪の礼の日に夫人と共に『殉死』した。
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