つれづれなるままに~日々是好日 歴史好きの独り言㉕
北九州市若松区のエコタウン内にあるヒューマンブリッジ株式会社NKRC事業所です。
歴史好きの独り言㉕ です★
長州藩の大ピンチ
『防長四白』といって、長州藩には4つの特産品がありました。
米、紙、塩、蝋で、これらを売ることによってかなりの収益がありました。
高杉晋作さんと伊藤博文さんが3000両ほど持って、長崎へ武器を買い付けに向かう途中、下関の稲荷町(現在の唐戸商店街のあたりで、花街)でパアーっと遊び、おうのさんという愛人まで身請けし、有り金残らず使い果たしても、『まあ、よかろう』で済んだくらいですから、相当に裕福だったんですね。
『金持ち喧嘩せず』なんていいますけど、当時の長州はかなり過激で、攘夷派の公家たちを通じて天皇に働きかけ、『攘夷だ』『倒幕だと』京都でずいぶんと騒いでいました。
しかし、幕府にとっては面白くないし、薩摩にしても天皇を独占されても面倒なので、7人の公家と長州を京都から追い出しました。
でも、なんとか京都での勢力を回復したいので、長州はあれやこれ手を尽くします。
そんな折、京都の池田屋で『天皇奪回作戦』を練っていた長州や他藩の志士が新撰組に襲撃され、多数の死傷者を出しました。
元治元年(1864)6月5日、京都三条大橋近くの旅館池田屋には20人ほどの志士がいて、踏み込んだ新撰組は当初、近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4人だけだったので、落ち着いて応戦すれば何のことはないと思うのですが、『新撰組が来た!』ってことで大混乱を起こし、大慌てで二階から飛び降りた際に足を挫いて動けなくなって捕らえられたり、、斬られて死傷者が出たりしました。この騒動の中に、土佐の脱藩者で勝海舟さんが主催する神戸海軍伝習所の生徒がいたので、幕府の命により伝習所は閉鎖になりました。
そこで、勝さんは行く当ての無くなった生徒の面倒を薩摩藩の西郷隆盛に頼み、その中に坂本龍馬がいて、薩摩との関係が始まるわけです。
この頃、坂本さん28歳。ようやく歴史の舞台に登場するわけで、満33歳の誕生日の夜に亡くなるまでの4年間にいわゆる『龍馬伝説』が生まれるのです。まあ、考えてみれば、志があるとはいえ脱藩して故郷を飛び出し、通っていた専門学校も閉鎖になって、これといった職も無かったってことですよね。
現在なら、このブログを読んだ後に弊社にお電話して頂いて、若松区の響町で廃家電製品の分解・分別作業に携わっていただければ、ヤル気ひとつで安定した毎日が送れるのですが・・・・。
これくらいにして話を戻します。
その頃、長州藩は藩を挙げて京都での勢力奪還のため挙兵し、2000人ほどの兵力で京都御所へ押しかけ、警護していた会津と薩摩の軍勢と戦闘になりました。これが『禁門の変』で、長州は大敗し、孝明天皇の怒りも買って『朝敵』となり、幕府もここぞとばかりに諸藩に長州をやっつけるように指示を出すわけです。ここに第一次長州征討が起きるわけですが、西郷隆盛さんが長州藩と交渉をして、戦争にはならずに済みましたが、長州人の薩摩と会津に対する恨みが増しました。
現在の蛤御門です。そもそも禁門と言って開けない門なのですが、京都で大火があった際、避難民を御所で保護するために開門されました。
火災によって開いたので、火にあぶられて口を開くハマグリに例えられ、以後『蛤御門』と呼ばれるようになりました。
御所の西側、烏丸通りに面していますが、騒ぎがあった当時は、この位置から東に30メートルほど奥で、しかも入り口は南に面し、少し南に下がった場所にありました。
ですから、この門は明治になって移築されたもので、いくら弾痕が残っているとはいえ、『ここでね、西郷隆盛率いる薩摩・会津の連合軍が長州軍と戦ってね、云々』と説明しちゃあダメですよ。
さて、坂本龍馬も出てきたことですし、次回は『薩長同盟』について書きます。
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