つれづれなるままに~日々是好日 歴史好きの独り言㊱ 田原坂(たばるざか)
北九州市若松区のエコタウン内にあるヒューマンブリッジ株式会社NKRC事業所です。
歴史好きの独り言㊱です★
熊本城の政府軍が薩軍に包囲され猛攻に晒されていた頃、政府は救援のために小倉第14連隊を取り急ぎ派遣しました。指揮官は乃木希典少佐で、以前にも少し書きましたが、日露戦争のときの第3軍司令官です。現在、リバーウォーク敷地内に乃木希典旧宅跡の小さな石碑があります。お気付きですか?
当時は自動車などありませんから、歩くなり駆け足するなりで行軍し、火器弾薬や食料など個人で携帯する以外はリヤカーというか大八車に載せて運ぶのですが、当時、そんな大八車ですら通行できる道は限られていました。なにしろ江戸時代には大きな道など造られませんでした。
なぜなら、いつの時代にもまとまった軍隊が移動するには大きな道が必要で、乃木さん同様、たくさんの物資を運ばなければなりません。ですから幕府はどこかの藩が江戸に攻め入ってこないように道の整備は行なわず、大きな川などにはあえて橋を架けなかったほどです。
余談ながら、オリンピックでは聖火リレーというのがありますね。最初に聖火リレーが行なわれたのはベルリンオリンピックで、考案したのはナチス・ドイツです。ギリシャからベルリンまで聖火リレーに使用する道の周辺地理、川の水深、戦車や軍用車両の通行の可否などを念入りに調査し、ベルリンへ聖火が運ばれた時とは逆のルートをギリシャまで侵攻したのです。
ま、何が言いたいかというと、戦争において道というものはそれくらい重要ですよ、ということです。
田原坂は熊本城北方18キロほどにある小さな坂道です。熊本へ軍隊が南下するには現在の植木町から田原坂を超えて進む以外に道はなく、ここで両軍の衝突がありました。この時のある不祥事が乃木さんのその後の人生を変えてしまうわけですが、それはまた後日。
後続の政府軍を迎え撃つため薩軍は田原坂に防衛線を展開し、西南戦争における最大の激戦地になりました。両軍共に多くの死傷者を出し、1日に30万発をこえる弾丸を撃ち合ったと言われ、この数は後の日露戦争における旅順攻防戦での1日の消費量を上回るのだそうです。
田原坂の戦闘は火力に勝る政府軍が勝利し、ここから薩軍の敗走が始まるわけです。維新を行い、早急な近代化と国内統一を目指す明治政府が最後にどうしても超えなければならなかった試練こそ、清正公のその昔より『田原坂』と呼ばれる小さな坂道だったというわけです。
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