つれづれなるままに~日々是好日 歴史好きの独り言㊴

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歴史好きの独り言㊴です★

天下分け目、関ヶ原②

命惜しむな名をこそ惜しめ

明治18年、日本陸軍は軍事教官としてドイツ陸軍参謀本部よりメッケル少佐を招聘しました。

陸軍生徒とメッケルが関ヶ原を訪れ地形を視察し、当時の両軍配置図を見た際メッケルは、『西軍の勝ち』と即答したといいます。

慶長5(1600)年9月15日、徳川家康率いる東軍約9万と毛利輝元を総大将に石田三成率いる西軍約8万が激突。関ヶ原の合戦である。

この日、関ヶ原は早朝からの雨によって霧に霞み、午前8時頃の戦闘開始の狼煙によって決戦の火蓋が切って落とされました。

 三成、家康ともに自軍の配置を確認すると勝利を確信したと言います。

何故なら、三成にすれば『鶴翼の陣』で東軍を取り囲んでおり、家康にすれば味方に付けたいわゆる内通者達が逆に三成を包囲しており、『鶴翼の陣』形成していたからです。 

東軍の福島正則隊を皮切りに、黒田長政隊、藤堂高虎隊などが入れ替わり立ち替わり石田三成の陣へ攻撃を仕掛けます。

実はこの時、西軍で実際に戦闘に参加しているのは、石田三成隊、宇喜田秀家隊、小西行長隊、大谷吉継隊の3万5千人くらいで、残りは戦闘中においても尚どちらに加勢すべきか決めあぐねている武将ばかりだったのです。

それでも西軍は東軍をなんとか押し返し、戦線は膠着します。この時点では西軍優勢といったところでしょうか。

当初、桃配山(ももくばりやま)に陣を構えていた家康ですが、霧で周囲がよく見えず、イライラして陣をより西軍側へ押し出しました。

家康という人、イライラし始めると爪を噛むクセがあったそうなので、このときもずいぶんと噛んでいたのでしょうね。 

家康に対し裏切りを約束していたはずの小早川秀秋(秀吉の正室『ねね』の兄の子)が一向に布陣している松尾山から動く気配がないので、業を煮やした家康は松尾山に向けて鉄砲を放ち、参戦を促したそうです。 

家康の怒りを知った秀秋がついに意を決し、山から駆け下りて西軍に突撃を開始します。

この1万6千人からなる小早川隊の攻撃を横から受けた大谷吉継隊は、何度か押し返したそうですが、この動きに乗じて周囲の西軍の中にも裏切り者が出て、西軍は一気に総崩れとなり、ここに西軍の敗戦は決定的なものになりました。

小早川秀秋の裏切りはこの合戦のもっと早い時期に行なわれていたのではないかという説があります。何故なら、午前8時頃に始まったこの戦いは午後2時、つまり僅か6時間ほどで終了しているからです。

石田三成、宇喜田秀家、小西行長は逃走、その他西軍も敗走する中、大谷吉継のみが自刃し、関ヶ原に果てました。

家の存続のために、小早川秀秋等裏切った西軍武将達は敗走する西軍追撃戦にも加わりましたが、東軍の武将達からは冷ややかな視線を受けたそうです。

『裏切りはありがたいが、裏切り者は嫌いだ』ということなのでしょう。

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