つれづれなるままに~日々是好日 歴史好きの独り言 第55回

北九州市若松区のエコタウン内にあるヒューマンブリッジ株式会社NKRC事業所です。

歴史好きの独り言第55回です★

真田丸の憂鬱①

関ヶ原の合戦の後、家康は征夷大将軍になりました。解り易くいうなら、日本中の武士の大将です。

ただ、秀吉の側室の淀君は、家康は豊臣家の家臣で、秀吉との間に生まれた我が子、豊臣秀頼の方がずっと偉いんだと思っていました。

家康にしても、関ヶ原で勝利したといっても豊臣家は健在であるし、まだまだ勢力は衰えていないので、何とかして叩き潰したいと思っていました。 

そんな時、京都の方広寺に寄進した大きな釣鐘に『国家安康』『君臣豊楽』の文字を見つけ出し、家康の文字を分けて呪い、豊臣の家来だって言いたいんじゃあないの?とイチャモンを付けました。

これに淀君は怒り心頭、武器を揃え、ウワサを聞いた浪人が次々と全国から大坂に集まりました。

この時、豊臣方から出馬要請されたのが、蟄居謹慎していた真田信繁で、年齢は46歳だったと言われています。 

徳川軍が江戸を出た情報を得ると信繁は、野戦に打って出る旨を諸将に進言しますが却下され、結局、大坂城での篭城戦に決定します。

大坂城は細長いい台地の先端にあって、北側には淀川があるため、徳川軍が攻めるには台地の入り口、つまり南側から攻めてくるわけです。

その入り口に築かれた出城こそ信繁が築いた『真田丸』でした。 

この真田丸の場所は永い間不明でしたが、調査の結果特定され、現在は跡地が学校の敷地になっていて、実際に行って見たのですが、その辺りだけ高台になっていました。 

そこで、20万人の徳川勢を約4千人で迎え撃ったわけです。

大坂城より南に突出した真田丸に籠もった理由は、豊臣方兵力10万といえども寄せ集めの烏合の衆で結束力に欠けるため、自らが統率できる真田の家臣団だけで戦うためなのでしょう。

この時、真田軍は全員『赤備え』といって、鎧や兜をはじめ装備品は全て赤で統一されていました。

武人の心意気というものでしょうが、いくら鉄砲で囲っているとはいえ怖くて仕方がなかったハズです。なにしろ、正面の敵は50倍ですから。

20万人という人の集まりを見たことはありませんけれども、ずいぶんと怖かったでしょうね。 

『引き受けなきゃ良かった』とか『逃げ出しちゃおうかなあ』など考えないものでしょうか?

しかし、そんな憂鬱はすぐに晴れました。

何しろ、武功に焦った徳川軍の武将達が次々に突撃して攻めかかってくれたおかげで、真田丸からの銃撃で1万5千旗以上、一説には2万旗が討ち取られたといいます。

こうして慶長19年11月、『大阪冬の陣』は豊臣方が優勢だったのですが・・・・。

さあ、お仕事始めましょうか。


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