つれづれなるままに~日々是好日 歴史好きの独り言第56回
北九州市若松区のエコタウン内にあるヒューマンブリッジ株式会社NKRC事業所です。
歴史好きの独り言第56回です★
真田丸の憂鬱②
僕は、以前よりお墓参り、特に歴史上の有名人のお墓へ行くのが好きで、坂本龍馬や高杉晋作の墓所へは何度行ったかわかりません。
最近では、そんな人達を『墓マイラー』と呼ぶのだそうです。
その人達がどんなに探しても『真田信繁』のお墓はありません。供養塔などは数箇所存在しているのですが、墓所は確認されていないのです。
ちなみに、『石田三成』の墓所は京都の大徳寺にありますが、明治45年に発掘されるまで地中深く墓石ごと埋められていたそうです。家康はよほど三成が憎かったという事でしょう。
で、あるならば、三成同様、信繁の墓も家康によって深く埋められた可能性がありますね。
だとすると、後世、あと一歩のところまで家康を追い詰め、討ち取る寸前までいったという言い伝えも真実なのかもしれませんね。
話を『大坂冬の陣』へ戻します。
真田丸の奮戦により戦況は豊臣有利でしたが、家康が直接大阪城を砲撃し、それに恐怖した淀君は和睦を申し出て、大坂冬の陣は終ります。
家康からの和睦の条件は、大坂城の外堀埋め立ておよび真田丸の破却でした。
家康は条件にはなかった内堀まで埋めて江戸へと兵を引きました。
内堀まで埋められた豊臣方は家康に不信感を抱き続け、集めた浪人達を大坂城に置き留めたり、一部堀を掘り返したりしたので、家康も豊臣方に不満が増し、再び大坂に出兵しました。その数15万人。
『真田丸』で痛い目にあった家康が態勢を整えて、再び豊臣家を完全に滅ぼすためにやって来たということです。
慶長20年(1615)4月、昨年の冬の陣に続いて『大坂夏の陣』が始まったわけですが、真田信繁自慢の『真田丸』はありません。
如何にして徳川軍15万人を迎え撃つか、信繁の憂鬱再び、いうワケです。
しかし、この時、昨年の冬の陣で家康が本陣として使用した『茶臼山』を第2の『真田丸』に仕立てて待ち構えていました。現在の大阪市の天王寺公園がその場所です。
豊臣方5万人は残った浪人などの寄せ集めで、連係プレイが出来ずに信繁の思惑通りに戦が運べなかったので、仕方なく真田丸を出て、徳川家康の本陣に一丸となって突進し暴れまわったのですが、結局、討ち取られてしまいました。
同日、淀君、豊臣秀頼も自害。豊臣家は滅亡してしまいました。
その後、こんなわらべ歌が流行します。
『花のようなる秀頼様を鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたり鹿児島へ』
鹿児島県南九州市頴娃(えいけい)町に真田信繁の墓ではないかという墓石があるそうです。
山道をずいぶんと歩くそうなので、僕はちょっと行く気にはなりません・・・・。
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