つれづれなるままに~日々是好日 歴史好きの独り言 第64回
北九州市若松区のエコタウン内にあるヒューマンブリッジ株式会社NKRC事業所です。
歴史好きの独り言です★
第64回 貧乏が国家を救う①
四国松山の城下町に秋山家という下級士族の一家があった。
家禄が10石、現在の価値に換算すると75万円くらいの年収で、夫婦には5人の子供があったから、まあ、推して知るべしといったところだ。
維新後、父親はなんとか下級公務員の職に就けたが相変わらずの薄給で、ある日、子供達を集めてこう言った。
『君たち、これからは自分の力で生きていくように!』
三男の好古(幼名:信三郎)はかなりの秀才だったが、進学を諦め、風呂屋で薪割りをやった。
そんな折、末っ子の真之(幼名:淳五郎)をお寺にやろうという話が持ち上がったが、信三郎が、
『赤ん坊をお寺にやってはダメぞな。今にウチがお豆腐ほどの厚さのお金を稼ぐから』
その一言で、淳五郎はお寺に行かずに済んだ。
その後、淳三郎は年齢を偽って大阪の師範学校、つまり現在の大阪教育大学を受験、入学した。師範学校なら学費はタダでお小遣いも少し出たからだ。
卒業後、小学校の教員になったがすぐに辞めて、陸軍士官学校に行った。学費や寮費がタダのうえ、少しの給料を貰えた。しかも『騎兵科』を選んだ。
騎兵とは陸軍の中でも馬に乗って戦闘し、突撃したり偵察をするのが役割だ。
馬が好きだったとか興味があったからではない。ほかの兵科より一年早く卒業でき、一年早く『給料』が貰えたからだ。
それが、日本の危機を救った。
『日本騎兵の父』と言われた秋山好古(あきやま よしふる)の誕生である。
彼の使命は日露戦争における陸戦において日本騎兵を率い、当時世界最強を誇るロシアのコサック騎兵を撃破することにあった。
日露戦争最中の明治38年1月25日、満州の黒溝台という日本陸軍の拠点にロシア陸軍が奇襲を仕掛けてきました。
こんな寒い時期にロシアが攻めてくるなんてことは有り得ないと、勝手に思い込んでいた日本軍はたちまち大混乱に陥ります。
日本軍の最左翼を守る秋山さんの率いる騎兵第一旅団8000人の前にコサック騎兵を含むロシアの大軍が向かって来ました。
その数、10万。
40kmの前線を僅か8000人で守っているわけで、ここを突破されると日本軍全体が崩壊する危険がありました。
5日にわたる不眠不休の戦闘の後、何とかロシア軍を押し返し辛うじて勝利を得ることができました。
その後、3月に行われた奉天会戦においても秋山騎兵旅団は獅子奮迅の活躍でロシアとの戦争を勝利に導きました。
戦後、陸軍大将で陸軍を退職した彼は、松山北予中学の校長の職に就き、71歳で亡くなる半年前まで勤務していました。
あまり語られてはいませんが、彼の教育者としての功績も大きく、第二次大戦後の日本の高等学校教育の基礎を築いた人でもありました。
貧乏が故にタダで学べ、手っ取り早く給料を貰える道をひた走った結果、家族どころか国家まで救ったというお話でした。
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