日日是好日 『薩英戦争』

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生麦村で起きた薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件に対して、イギリスは幕府に10万ポンド、薩摩藩には25千ポンドの賠償金と犯人の引き渡しを要求した。

その頃は攘夷論が高まっており、幕府は要求受け入れを朝廷に報告できず、イギリスからの要求は拒否する旨報告したが、無条件に賠償金を支払った。

さらにイギリスは薩摩藩と直接交渉するため、横浜に停泊していた7隻の軍艦からなる艦隊を薩摩に向かわせた。

文久3628日(1863812日)、イギリス艦隊は錦江湾内に到着し市街地から僅か1キロ沖に停泊、武力による威嚇を開始する。

これに対して、薩摩藩ではスイカ売りに化けた決死隊を送り込んで敵艦の奪取を試みるも失敗。

イギリス側は交渉を有利に進めるため停泊中の薩摩船3隻を拿捕したが、これに薩摩側は激怒、当時世界最強と言われたイギリスに対し、地方政権でしかない薩摩藩が戦いを挑む。

文久372日(1863815日)ついに戦いの火ぶたが切られ、当初、薩摩砲台の射程内に停泊していたイギリス艦隊は砲撃により大打撃を受け、旗艦ユーライアラス号の艦長が戦死、司令官も負傷した。

この日の海上は台風による暴風雨で大荒れであり、イギリス側の艦砲射撃の照準が定まらず苦戦したが、薩摩の沿岸砲台群および市街地に向けて最新のアームストロング砲で応戦し大きな損害を与えた。

だが、艦船の損傷も大きく、イギリス艦隊は撤退を決意、薩英戦争は両者痛み分けのような形で終わった。

この薩英戦争にしろ、長州藩が外国勢と戦った下関戦争にしろ、歴史の教科書では日本側の損害ばかりが強調され、いかにも日本側の敗戦のような書き方だが、どちらの戦いも人的被害は外国側が多かった。

実際のイギリス側被害は、軍艦の大破1隻、中破2隻、戦死13名、負傷者50名であり、これに対し、薩摩側は戦死5名、負傷9名、市街地での死傷者9名であった。

しかしこの数字は戦闘に参加した兵士の損害で、民間人の損害は不明となっている。

この戦いの後、薩摩藩の識者たちは、イギリス艦隊が引き上げたのは暴風雨のためであり、もしも当日、晴天で波穏やかであれば間違いなく敗北していたと悟り、交渉を通じてイギリスより技術を導入して、今後の国防に備えるべき旨を藩主に説いた。

またイギリスも生麦事件の交渉において信用のおけない幕府より薩摩の誠実な対応に好意を抱き、両者の関係は急速に接近し友好関係を築いた。

アジアにおいて西欧列強の植民地にならなかったのは日本とタイだけだと言われる。

タイの場合は、ここがどこかの植民地になると他の列強の植民地と国境線を接し争いのタネになるので、敢えて『緩衝地帯』として空けていたためであり、日本の場合は、『フリーメーソン』の策略といった面白可笑しい説もあるようだが、何のことはない、それは日本人が強かったからに他ならない。

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