日日是好日 日露戦争①『開戦までの動き』
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今から120年前、日本とロシアは戦争した。
日清戦争勝利の結果、日本は遼東半島と台湾、さらに巨額の賠償金を獲得し、朝鮮の独立も認めさせた。
しかし、清国に進出するフランス、ドイツ、ロシアが日本に対し、遼東半島を清国に返還するよう迫った。
これを『三国干渉』という。
清国との戦争の後で三国への対抗が不可能な日本は、想定内だったとはいえ、清国に遼東半島を返還した。
その直後、ロシアが清国と交渉し、遼東半島にある旅順と大連という二つの都市を清国から借り受けた。
このことから日本は『臥薪嘗胆(がしんしょうたん)』、薪の上に寝て苦い肝を舐めながら耐えるという意味のスローガンを掲げ、南下政策を進めるロシアに対し、国力の増強に努めた。
そんな折、1899年『義和団』という宗教結社が、生活に困窮する農民を扇動し、外国排除の乱を起こす。
この義和団の乱を清国政府も密かに支援し、ついには北京の日本及び西欧列強の公使館を包囲するに至った。
この動きに対し各国は軍隊を派遣し鎮圧に努め、鎮圧後は逐次撤退した。
ところがロシアだけは撤退せず軍備を増強し、ついには満州との国境を超え、朝鮮北部に進出を始めた。
日本にとってロシアによる南下政策は幕末からの恐怖であり、朝鮮がロシアの手に渡ると、安全保障上の脅威が現実のものとなる。
そこで日本に二つの考えが出てくる。
ひとつは『日露協商論』と言い、満州をロシアに明け渡すが、朝鮮は日本が支配して協調路線を進めようというもの。
もうひとつは『日英同盟論』と言い、ロシアと関係が悪化していたイギリスと同盟を結び、そのバックアップによってロシアと戦うという二論であった。
日本国内ではマスコミが日露開戦を煽り、桂太郎といった主戦派の動きが強まって、1902年日英同盟が成立し、日本はロシアとの戦争を決意するに至った。
ロシアは4倍の工業力を持ち、200万人の陸軍兵力と3セットの艦隊を持つ世界有数の軍事大国であったが、広大な国土を防衛するため200万人全てを動員することができず、満州には10万人程度しか展開していなかったし、艦艇も数こそ多いが旧式なものが多く、日英同盟によってイギリスより最新鋭の戦艦や巡洋艦を購入できた日本が戦力では優位であった。
したがって、満州における開戦直前の兵力はほぼ互角であり、日本としては戦闘地域を限定し、個々の戦闘において勝利を重ね、頃合いを見てアメリカに仲裁に入ってもらい講和するという思惑であった。
しかし、戦争終結直前の総動員数を見れば、日本の87万人に対し、ロシアは100万人であり、兵員不足に苦しんだ日本に比べロシアはまだ余力があり、決して楽に勝利したわけではなかった。
明治37年(1904)2月6日、日本はロシア側に国交断絶を通告、2月10日に宣戦布告した。
日本ではロシアの侵略により戦ったように語られるが、朝鮮半島を足掛かりに満州へ進出を目論む日本とロシアとの帝国主義国家の戦争だったのである。
日本は日露戦争の戦費調達のため国債を大量に発行し、外国から多額の借金をしたが、その返済が完了したのは昭和61年(1986)のことである。
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