日日是好日 日露戦争③ 『日本海海戦』

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190410月、ロシア第二太平洋艦隊、いわゆるバルチック艦隊は極東ウラジオストクに向け出港した。

 

目的は、旅順港に立て籠もるロシア太平洋艦隊と合流して日本海軍を撃破し、優勢な勢力をもって朝鮮半島付近の制海権を握り、日本から大陸への海上輸送路を断つことである。

 

途中、スエズ運河を通過予定であったが、主力艦艇は積載重量がオーバーして航行不可能で、喜望峰を迂回するという余計な航海を強いられた。

 

また、ロシア本国では先発の第二太平洋艦隊だけでは日本艦隊との砲力に大差が無いとして第三太平洋艦隊を編成し、遅れて極東に向け出港させた。

 

先発した第二艦隊司令官のロジェストヴェンスキー中将はこれに強く反対した。

 

第三艦隊は旧式艦が多数で速力が劣り第二艦隊と共同作戦が難しく、ただでさえウラジオストク入港が急務であるのに、第三艦隊との合流を待たねばならない。

 

また、この頃の艦艇には空調設備が無く、赤道直下のインド洋における航海は乗員に地獄の苦しみを与えた。

 

そんな時、19051月ロシア本国より旅順要塞陥落の報が届き、艦隊派遣の意味を失ったが本国より『反転せよ』の連絡はなく、バルチック艦隊はウラジオストクへの航海を続けた。

 

友好関係にあった『フランス』の息のかかった港で石炭や食料を補給しながら、第三艦隊の到着を待って集結し、カムラン湾を出港したのは19055月になっていた。

 

このころ、日本の連合艦隊は艦艇を整備し、猛訓練を重ねバルチック艦隊を待ち構えていた。

 

だが、ひとつ問題があった。

 

敵がどの航路を通過してウラジオストクに入るのか皆目見当がつかなかったのだ。

 

すなわち、対馬海峡を抜け最短距離の航路をとるのか、太平洋に出て津軽海峡か、更に遠回りして宗谷海峡を抜け日本海に入るのか判断に苦しんだ。

 

連合艦隊を三分してそれぞれの海峡出口に艦艇を配置できるのならいいが、保有する艦艇数では不可能であった。

 

また、取り逃がしてウラジオストクに入港され、そこを拠点に通商破壊活動を行われると、大陸にいる日本陸軍に物資が送れず壊滅する恐れがあった。

 

したがって、連合艦隊司令長官『東郷 平八郎(とうごう へいはちろう)』に課せられた使命は、バルチック艦隊を捉えウラジオストク入港を阻止し、全滅させることだったのである。

 

苦慮の結果、敵は対馬海峡を通過すると判断し、連合艦隊は対馬沖に待機した。

 

明治38年(1905527日未明、バルチック艦隊は予想通り対馬沖に出現した。

 

兵力は、戦艦8隻、海防戦艦3隻、装甲巡洋艦3隻、巡洋艦6隻、駆逐艦等小艦艇38隻で、迎え撃つ連合艦隊は、戦艦4隻、装甲巡洋艦8隻、巡洋艦15隻、駆逐艦など小艦艇108隻であった。

 

海戦は、連合艦隊の巧みな艦隊運動と有効な砲撃が功を奏し、砲撃開始から30分でほぼ決着がつき、バルチック艦隊に沈没艦21隻、拿捕、中立国抑留艦12隻、戦死者5000名、司令官ロジェストヴェンスキー中将を含む捕虜6000名の損害を与え、連合艦隊は水雷艇3隻沈没、戦死者107名、戦傷者583名という、海戦史上に類を見ないほぼパーフェクトゲームで勝利した。

 

昭和20年の敗戦まで527日は『海軍記念日』であった。

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