つれづれなるままに~日々是好日 歴史好きの独り言㉞

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歴史好きの独り言㉞ です★

坂本龍馬暗殺の謎②

京都で四条河原町といえば一番の繁華街です。

そんな人で賑う通りを歩いていると歩道の隅に石碑が建っていて、『坂本龍馬、中岡慎太郎遭難之地』と刻まれています。石碑の所には現在飲食店があり、以前はコンビニで、その前は旅行代理店でした。

慶応3年(1867)11月15日、坂本龍馬は滞在先の近江屋で偶然居合わせた中岡慎太郎と共に何者かに斬られます 。

龍馬はほぼ即死でしたが、中岡の方は腕の皮一枚残して斬られたにも関わらず意識はしっかりしていて、三日ほど生きていたので状況を詳細に語っています。

しかし、実行犯に関する情報は皆無で、周囲は新撰組の仕業だと思っていました。

この事件を知った西郷は『土佐の連中は冷たい人間ばかりだ』と激怒しました。 

なぜなら、後藤象二郎と長崎で和解し、土佐藩内で中心的役割を担っているのなら、遠慮なく土佐藩邸内に住み、保護してもらえればいいのです。 

しかし、現実には身分の壁があって、下士である龍馬は藩邸には居辛かったのでしょう。

このことは龍馬に対する土佐藩の評価や扱いを表しているように思えます。

海運業を興してくれたり、薩長という新政府の枠組みの中に土佐藩を加えさせてくれたり、大政奉還を示唆してくれたりと面白いヤツではあるが、所詮『下士だ』という認識だったのでしょう。

実は、近江屋と土佐藩邸の距離は通りを挟んで80メートルしか離れていないのです。

この距離こそが龍馬がどうしても超えることの出来なかった『身分』という距離でした。

執筆中の私同様、西郷も気の毒に感じていて、『薩摩藩邸へおいでよ』と誘いましたが、『

そんなことをしたら、土佐藩に対してイヤミになるからやめておくよ』と言っていたそうです。

このようなエピソードからも私は坂本龍馬という人物が重要人物には到底思えないのです。

戊辰戦争中、官軍は捕虜や逮捕者の仲に元新撰組の隊士を見つけると必ず尋問していました。何故なら、以前京都で多くの志士達が斬られたからです。

その中に、大石鍬次郎という元隊士がいて、坂本龍馬を京都見廻組が斬ったと供述しました。

実行犯は佐々木只三郎、今井信郎らだと言うのです。

今井は五稜郭での戦いの後、禁固刑になりましたが特赦により2年ほどで釈放されました。

西郷の計らいだったので、西郷が龍馬暗殺の黒幕だという説もあるほどですが、現在では、今井が遺族に語った詳細な資料もあり、龍馬暗殺は京都見廻組犯行が通説になっていて、謎などありません。

犯行の11月15日は、大政奉還より1ヵ月ほど後のことです。

この時期、幕府側が迂闊に薩摩や長州に対してチョッカイを出すと天皇を擁しているだけに『賊軍』になり、戦争のキッカケを与えてしまいます。

そこで、龍馬が標的になったのだと私は考えます。

薩長に対して怒り心頭で憂さを晴らしたい。そこで、薩長同盟に関わり、寺田屋で捕り方を2名殺害した龍馬を殺害したのだと。

ある意味、見せしめですよね。

すなわち、どこの藩においても特別重要でもなく何の影響も無い人物を選定、実行したんだろうなあと思います。ですから、大人物でもなければ英雄でもなかったと考えるワケです。

西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允を称して『維新の三傑』と言います。

彼らは藩士で禄(給料)をもらい、藩の後ろ盾があるのですが、龍馬にはそんなもの何もありません。

この、末っ子の甘えん坊は時々実家から仕送りを受けていたようですが、結局、身分制度のある封建的な社会で自信の才能を駆使し、自立自存して生きていたわけです。 

私が、大人物や英雄とも思えない、一度も会ったことの無い人物にこれほどまでに愛情を傾けるのは、そんな理由によります

さあ、お仕事始めましょうか。


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