つれづれなるままに~日々是好日 歴史好きの独り言㊻
北九州市若松区のエコタウン内にあるヒューマンブリッジ株式会社NKRC事業所です。
歴史好きの独り言㊻です★
西南戦争直前の鹿児島
廃藩置県によって、中央政府が各県の人事権を掌握し政治統治を完了したと思っていたわけですが、鹿児島県だけは別で、県知事および県の役人はすべて『私学校』の息のかかった人間で運営されていて、まるで独立国の状態でした。
そんな時、大久保利通は鹿児島県令の大山綱良を東京へ呼び、
『県の職員達を政府から派遣した人間と入れ替えてもいいだろうか?』と相談します。
そもそも大久保さんは内務卿なわけで、なにも県知事にわざわざお伺いを立てなくても自分の一存で決定できる立場なのですが、こういう遠慮が当時の政府と鹿児島の力関係をよく現していますね。
この一件で、鹿児島における中央政府への不信は頂点に達し、中央政府も鹿児島に対する温情的ともいえるこれまでの措置を止め、ここに本格的な対立が始まるわけです。
そんな時、警視総監ともいえる警察のトップ、川路利良が鹿児島出身の警視庁職員をスパイとして鹿児島に帰省させました。
目的は情勢の視察と私学校内部離反の工作、だとされています。
これらスパイ達は、『東獅子(あづまじし)』と呼ばれ、たちどころに私学校側に捕まり、拷問によりいろんな自供をしてしまいます。
その自供の中に『西郷隆盛暗殺』をほのめかすものがあって、私学校側は中央政府の意向を知るや直ちに臨戦態勢をとりました。
そんな折、政府による鹿児島からの強制的な武器弾薬の運び出しが行なわれ、激怒した私学校生徒達が逆に火薬庫を襲撃して、完全に中央政府と離反し敵対関係となりました。
火薬庫襲撃は死罪になります。中央政府はいずれ犯人引渡しを要求してくるでしょう。実行犯は1000人を超えています。これに西郷の情が負けて薩摩側の首魁となってしまいました。
当時、陸軍は新式のスナイドル銃を装備していました。現在のライフルの基本になった銃で、ひとつ前のエンフィールド銃とは格段に性能に差があります。実は、鹿児島はこの銃弾を製造して供給していたのです。政府による武器弾薬の運び出しの際、その製造設備も持ち去られてしまったので、この後の西南戦争において薩摩は旧式銃のエンフィールド銃で戦わざるを得なかったのです。
よく歴史書に『あの西郷がなぜ旧式銃であえて戦ったのか?』とか、またそれを良いように解釈して、『わざと負ける気だったのだ』みたいな記述がありますが、真相は上記の通りです。
また、新政府がどこか鹿児島には遠慮気味で力関係において対等だったのも同じ理由によります。
ついに明治10年(1877)2月15日、『政府に尋問の筋これあり』と薩軍15000名が東京へ向け出陣、また九州各地の反政府グループも呼応して決起し、総数約30000名が反旗を翻しました。この日は南国には珍しい50年ぶりの大雪であったと言います。
『尋問の筋・・・・』とは西郷暗殺についての真意のことです。
そして、西郷は陸軍大将の署名のもと熊本鎮台に対して、
『我々が熊本通過の際には、鎮台は全員整列の上、敬礼して出迎えるよう』旨、手紙を送っています。
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